新撰組屯所

2004年の大河「新選組!」にハマりっぱなしの新選組ファンです♪副長が大好きです(^^)v

Articles

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
にほんブログ村 歴史ブログ 新選組へ
にほんブログ村↑皆さまのクリックが励みになりますm(__)m

「精忠 天を貫く」

その時歴史が動いた「会津戦争編」を観ました。

TVの番組欄を見たら、「新選組白虎隊」と書いてある。
いや~ 新選組は、新選組、白虎隊は、白虎隊やろ?

何ゆえ、セットにする?
コレじゃあ知らない人は、もしかしたら、「白虎隊って、新選組の一部やったん?」って思うかも?知れへんやん?

→いや、思えへん、思えへん。

タイトルにした「精忠 天を貫く」
は、松平のとっつぁん、、、もとい!
松平容保公の人柄を表した言葉だそうです。

番組のサブタイトルには、「義に死すとも不義に生きず」とありました。

しかし、、、アレですね。
京都の治安を守るため、京都守護職という役目を、
「アンタとこが一番、徳川家に対して忠実やし~ 武力もあるし~ やってくれへん?いや、やってよねっ!」

、、って、無理やり押し付けられた訳ですよね~ 会津藩って。

容保さまは、家訓(かきん)、いわゆる、新選組で言えば、局中法度な訳ですね。
その法度(?)の中のひとつ、「徳川家を守りなさい!守らなきゃ子孫じゃないからねっ」っていうのを守って、職務に励んだ訳ですね。

まあね、、、その徳川家がその後も安泰なら、何の問題も無かったんですよね。

あ、けど、そうか、、、

安泰なら、京都守護職っていうのも無かった(?)訳で、、、
当然、配下に新選組を置く必要も無かった訳ですね。

何か、、皮肉ですよね。

とにかく、容保さまは、新選組を抱えた訳です!
「会津藩お預かり 新選組」の誕生です!
にほんブログ村 歴史ブログ 新選組へ
にほんブログ村↑皆さまのクリックが励みになりますm(__)m
ナレーションには、うろ覚えですが、「疑わしいものを容赦なく斬捨て、反幕府勢力を震え上がらせた」とありました。

チラッとだけですが、映像が有りましたね~
誠の旗がはためいて、、、(やった!新選組の出番や!と思いました。)

アレは、多分、、、池田屋事件の後?近藤さんが「いざっ!」って掛け声掛けて、屯所(八木邸)までパレードして行った場面ですよね。

ま、、コレだけでしたけど(苦笑)
映っただけでもよし、とするか、、、

で、、、禁門の変→孝明天皇の崩御→鳥羽伏見の戦い→錦の御旗、となります。

鳥羽伏見の戦いでは、数では勝っていたものの、寝返るモノも出~の、武器も古いだの、ってコトで負けてしまったんですね~

でも、容保さまの「もう一戦交えたら、勝てるかも?」にも聞く耳持たず、
徳川慶喜は、「え?あの旗に背いたら、逆賊やん!そんなん、、絶対イヤや!」
と、恐れおののき、容保さまを連れて江戸へスタコラサッサと、逃げて行ってしまったんですね~

そして、容保さまは会津へ3年ぶりに里帰りするんですね。

江戸城は、無血開城。
新政府軍は、慶喜の代わりに、容保さまを生け贄に!しようとしたんですね。

新政府軍の容保さまに対する暴言(というか、暴書き?)「朝廷ばかりか、徳川に対しても不忠義」に、
容保さま本人も当然のコトながら、会津藩士たちは、怒りました!
そこで、”藩の名誉と存亡を掛けた戦い”をする決意をするんですね~

う~~ん、、、理不尽にも程がありますね~
戦争は、いけないです。やっちゃダメです。

やってはいけない!と思うけど、、、会津藩が”戦って、勝って、汚名そそいでやる!”って思った気持ちも、理解できます。

しか~し、この決意が悲劇を生むんですよね。

容保さまは、ろう城を決意します。

が、、、
女性、老人、子供、そして白虎隊、、、皆、自刃。

「死者を葬るための井戸が直ぐに一杯になってしまった」っていうナレーションが私の胸を締め付けました。

私、以前過去記事で「ろう城食」を取り上げました。
うん、、、現代では想像も出来ないですが、酷いものだったに違いありません。

そしてその時、1868年(明治元年)9月22日
戦力のあまりの違い、そして家臣たちのあまりの窮状を見かねて、容保さまは降伏の決断を下します。

容保さまが城から出る時、
「謝罪の必要なんて、無いのに、、会津藩は、何も悪くないのに、、、」っていう思いが有ったに違いないって、私は思います。

で、え~っと、突然ですが、土方さんは、、この年の10月に蝦夷地へ渡っています。
土方さんのファンとしては、チョコッと気になったので、調べました(笑)

容保さまに戻ります。

反逆者としての罪を許された容保さまは、残りの生涯を、会津ではなく、東京で過ごされたんですね~ 知りませんでした。

孝明天皇から頂いた「御しんかん(←漢字が分らない、、)」(感謝状みたいなもの?なのでしょうか?)をずっと肌身離さずにいた、というのと、晩年に作られた和歌
なき跡を 慕うその世は 隔たれど なお目の前の ここちこそすれ」
を知って、私、感動しました。

え~っと、この和歌の意味って、、、
「(会津戦争のことは)遠い昔の話だけれど、今まさに、起こってるような気もする」みたいな意味?なのかなあ~?(汗)

どうなんかなぁ~?
全然違ってたりして、、、(苦笑)
関連記事

トラックバックURL

http://55hougyoku.blog13.fc2.com/tb.php/622-c878f5a8

この記事へのトラックバック

この記事へのコメント

(TT)

不覚にもこの番組残り15分あたりで気付いてチャンネルを変えました。 それまで「働きマン」を見てしまっていた私でした。(TT)
容保様の気持ちを考えると、残り15分だけを見ていても涙が自然と流れました。 余生を東京で過ごされたのは初耳でした。 多分、会津に戻ると辛い過去を思い出して、いたたまれない気持ちになるからだったのでしょうね。なんて勝手に思ってしまいます。 歴史の中にはそれぞれのドラマがあるけれど、やはり私は義を重んじる会津藩、好きですね~v-238

  • 20071018
  • HS ♦-
  • URL
  • 編集 ]

容保さまは将軍と共に大阪城をこっそり脱出してしまった点だけはいただけませんv-292

もし大阪城から反撃していたならば、
歴史はどう変わっただろうか?と思いますねー

  • 20071018
  • puftaddy ♦tSD0xzK.
  • URL
  • 編集 ]
HSさんへ

ええ~?残り15分だけですか~?ええ~?
「働きマン」ですか~?

ど~したん?HSさん~?(笑)

>余生を東京で過ごされたのは初耳
あ!HSさんもそうでしたか~
で、、そうですね、容保さまにすれば、あのまま会津に住み続けるにはあまりにも辛い思い出が多すぎるよね~

後は、コレは私の勝手な憶測ですが、、、
当時から、天皇は東京に移ってられたんですよね?(だと思うんですが)
天皇の近くに居たかったから?とか?
いや、ホント、勝手な思い込みですが。

>会津藩、好きですね~
義を重んじるコトを優先するあまり、大勢の人命を犠牲にしてもいいとは思わないんですけど、私も会津、好きです~

puftaddyさんへ

>将軍と共に大阪城をこっそり脱出してしまった点
あ~ その点ね~
私、アレは将軍が無理やり連れて行ってしまったんだ、容保さまは、本当は残りたかったんだって思ってるんですけど~?
ホントのトコはどうだったんでしょうね~?

万一、反撃して勝ってたとすれば、、、
明治維新は無かった訳で、、、
今のこの生活も多分、無かった訳で、、、
そんな風に考えると、、、
う~~ん、反撃しない方が良かった?んですかね~(苦笑)

こんにちは

「ならぬものはならぬ」という精神、
これはある意味で会津の長所であり短所だと思います。
天皇から信頼され朝廷を守った姿勢は素晴らしいですが、朝敵と決め付けた相手に対しては容赦なく、禁門の変の残党をすべて首を跳ねたり、長州征伐を積極的に勧めたり、
もちろん会津にも言い分は有ると思いますが、会津内部でも京都の会津姿勢に批判する人々もいたのは事実です。

戊辰戦争はどっち良い悪くでなくお互いの相互理解が足らないから戦争は起きたものだと私は思います。

  • 20071019
  • 毅 ♦-
  • URL
  • 編集 ]
毅さんへ

なるほど~ 長所は短所にもなり得ますからね。(その反対も、しかり)

あ、、、禁門の変では、そういう事もあったんですね。
単純に、長州、薩摩だけが悪かったんだ、とは言えないですね。

>お互いの相互理解が足らない
そうですね。”よく話し合って歩み寄る”っていうことが出来なかったっていうことがああいう悲劇を生んだと言えますよね。

私は、新選組が好きなので、どうしても会津贔屓になってしまいがちなのですが、コメントを読ませて頂き、あ、そうか、、と思えました。

的確なコメントを有難うございました。

最後に一言

これは私の経験なんですが、私も会津が好きであり調べようと色々と本を読んだりしましたが会津贔屓作家による余りにも独善的、排他的、怨念史観に嫌気がして挫折してしまいました。
その後一端会津から距離を起き、専門の歴史研究家による幕末政治本を読んだり、読んでいて頭が痛くなるような難しい大学教授クラスの研究論文を読む機会に恵まれ、最近また会津の本を読んだが、

正直、全部とは言えないが幕末政治考察が雑な物が多く、これでは会津を知りたいと思って読んだ読者を無意味なアンチ薩長に作り上げている感じがしました。
会津を取り上げるメディアは会津戦争の悲劇を伝えるのはお決まりのパターンですが、もっと色んな角度から会津を取り上げると良いと思います。

  • 20071019
  • 毅 ♦-
  • URL
  • 編集 ]
毅さんへ

はあ~スゴイ!
かなりの量の本を読まれ、研究もされたようにお見受けします。

>怨念史観
ですか、、、(苦笑)
>アンチ薩長
”VS”となると、どちらかを応援したくなるものですが、、、でも、そうですね、安易に「絶対薩長が悪い」と言ってはいけないですね。

>会津戦争の悲劇を伝えるのはお決まりのパターン
ま、、そうですね。
それに、「ね?会津って可哀相でしょ?」と視聴者に同意を求めてますよね。

>色んな角度から会津を取り上げると良い
私も同感です。

その歴見ましたよ~!良い勉強になりました。けど新選組と同じで悲劇ですよね~!
松平会津公!もう滅びそうな幕府を最後の最後まで守り続けて結局は戊辰戦争=会津戦争へと広がった。とても悲劇な人だと思いますよ。特に会津戦争は最近の本で悲劇なのが分かります。二本松・白虎隊の悲劇、娘子隊の悲劇、西郷頼母の一家の悲劇【頼母は函館戦争まで確か戦っていると思います。】いろいろ悲劇ですが新選組も悲劇でした。【如来堂の戦い斉藤一など】とにかく戊辰戦争では死者が多かったのかなと思いますし私は会津行って分かったんですが薩長のやり方がひどい!ひどい!当時官軍は埋葬を確か禁止させた法令を作ったため会津戦争の戦死者がそのまま埋葬されずに会津は大変だったと思います。【白虎隊は本当に悲劇。】だから伝染病とかあったのかなと思いますし会津の人達が今でも長州を嫌いなのが分かります。【降伏の際赤い布で泣いた?名前忘れましたが。】
とにかく会津は可愛そうですが徳川に忠誠と大義を貫いたことは今でもそうではないでしょうか~。【明治では会津の人々青森の斗南藩に移された。可愛そう~。】
変な文ですいません~!

  • 20090127
  • 勇春~局長~ ♦-
  • URL
  • 編集 ]
勇春~局長~さんへ

勇春~局長~さんは会津に行かれたことがお有りなんですね!

あ~ 会津には、ふぐを食べさせるお店が一件も無いって聞いたことが有ります(苦笑)
それほど今でも長州を嫌ってるって事なんでしょうか?(~_~;)

>【降伏の際赤い布で

あ、はい、知ってます。
私も名前は忘れましたが(^_^;)

コメント投稿フォーム

管理者にだけ表示を許可する

Paging Navigation

Navigations, etc.

About This Website

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。